起きることを前提に
考える必要があると自分は考えます。
学校や会社で起きてニュースになって騒いでいる度に思います。
すくなくとも、起きない、うちの○○ではいじめなんてない。というのは綺麗ごとで大なり小なりは必ず起きています。
偏見の塊です。毎回言ってるような気がしますが読まないほうがいいですよ。
なくすことを考えてはいけない
子供は残酷で素直に反応してしまうので直接的ないじめになり、大人は経験値があるので間接的ないじめになります。たちが悪いのは大人ですが。
加害者が被害者に、被害者が加害者になることも考え方、行動1つで起こり得ます。
あることを前提に起きたらどう対処するか、起きた時問題(と感じる)ことをいかに軽減するかを検討することが健全だと思います。
ただ事象を排除するのはいじめと変わりません。新たないじめを生むだけです。
いじめはよくない事ですが、なくなりません、ない環境なんて人間社会では(たぶん過去も未来も含め)ありえません。
全員平等とかいってるやつほど信用してはいけません。
私は小学校の頃から道徳の授業は洗脳の時間と考えています。本来知らなくても良いこと(過去のしきたりや偏見)を大人の都合に合わせて刷り込みしてます。
というかそれがいじめなのか?
っておもうようなことでも被害者(と感じている人)がいじめだとおもえばいじめと定義されてしまっています。
親切心が、実はいじめだと感じ取り上げられる世の中になってるのも問題ですよね。
特に個人的偏見ですが女性のほうが感受性が豊かで群れを好む傾向がある(とおもっている)のでそこからはじかれたとき、はじくときの受け取り方が極端な気がします。
さみしいですが、良かれと思ったことも不快と相手がうけとり、おもしろがってそれをネットやメディアで大々的にバッシングされる時代です。しかも一方的に、、ある意味加害者に回ります。
こうやってBlogで意見書いているのも加害者側なのかもしれません。不快と思った人すみません。
日本人は特に自分の不の感情を表現するのが苦手
だと自分は考えています。なので不快だということを不快だと言えない。
我慢が美徳だと教え込まれている気がします。それは幼少期の学生時代に刷り込まる気がします。(偏見はいってます)
そのため強者(実は弱者)が思い違いでストレス発散する場所を他人に向けてしまうのでしょう。
複数の個性や特性があるから人の社会は成り立っています。
いじめを受けるている場合
精神的な攻撃と(金銭含む)物理的な攻撃があるとおもいますが、後者の場合生命、財産にかかわる事ならただの刑事犯罪です。
なので自力で対処(通報・訴える等)するか、内外の人が早めに気づいて対処できるといいのですが、学校、会社、家庭など閉鎖空間だとなかなか外部からの干渉は難しい面もあります。
精神的なものは受け取り方にもよるのでなんともいえませんが人によってはダメージはそちらの方が大きいです。
あと、自分も会社の派閥からはじかれた経験があるので、ああ、いじめの対象にされてるからこうなってるのか、と理解してしまうとダメージ増大しましたw。
そう、精神的ダメージの大きさは理解して(考えて)しまうと大きくなります。
理解しなければそんなもんだと受け入れてしまいます。
でも受けていることがわければ対処のしようがあります、そういう環境であることを理解し、そこで戦うか、逃げるか判断できるようになります。自分は闘いましたが権力には勝てませんでした(笑)。あとどうするかは自分次第、私は私なりの解決策をさぐりそれを実践しました。結果が正しいかどうかはだれにも分かりません。
いじめられていると感じる方へ
道はひとつじゃありません、戦うことも逃げることもほかの道もたくさんあります。
しかし、環境を変化・行動を起こせば代償もあります。それとどちらが大きいかを天秤にかけ判断するかはあなた次第です。
あと、よく一人で考え込まないこと、っていわれますが、ほっとけや!ってきもします、自分が選ぶ道ですからね、ただ解決方法を探らないまま選択をすることはないと思います。
世の中どうしようもないこともたくさんあります!
そして、実際はなんとかなる事が多いのも事実です。
拾ってくれる神がいるかもしれませんが、それを見つけるのも努力や運しだい、取捨選択がうまいか下手かなんですよね。むずかしい。
まとめ
なにかいてるかわからなくなったので、今回はこの辺で
いじめはなくなりませんが、意図的にいじめをして良いことはありません。